HOME > 仙台みそについて > 「仙台みそ」の長い歴史



伊達政宗公 (仙台市博物館より)豊臣秀吉の朝鮮出兵に際し、伊達政宗が浅野長政等と共に朝鮮に渡り蔚山で戦った時、他藩の味噌は夏期に腐敗してしまったが、仙台藩の味噌は少しも変質せず味も優れていたので、請われて他藩に分ち与え、一躍『仙台味噌』の名を上げたと伝えられています。また、政宗公は常に城中の糧とする目的で大規模な味噌醸造の設備「御塩噌蔵」をつくり、真壁屋古木市兵衛は「御用味噌屋」となりました。(以上「仙台味噌の歴史」)



戦国武将たちは皆、戦闘能力を左右する兵糧(戦陣食)には重大な関心を持っていました。とくに米と味噌、この2つは絶対に必要な兵糧でした。しかし、みその携帯には苦労したようで、干すか焼くかしてみそ玉にしたものを、他の食料と一緒に竹の皮や手拭で包み、腰に下げるのが一般的だったようです。また干采や干大根などを味噌で塩辛く煮詰めそれを干し固めて携帯し、陣中で煮ればそのまま味噌汁になる方法も考え出されました。伊達政宗は軍用みそを他に頼らず自給しようと考え、城下に「御塩噌蔵」と呼ばれるみそ工場を建てました。これが最初のみそ工場であり、仙台みその始まりだとも言われています。
慶応元年:仙台城下町絵図 (仙台市博物館より)



仙台藩の江戸藩邸に常勤する士卒 3,000人の食糧は、すべて仙台から、味噌は城内御塩噌蔵から運ばれました。まもなく大井の下屋敷に味噌蔵がつくられ、国許からの大豆・米で味噌が仕込まれるようになりました。江戸の庶民は、『仙台味噌』のおいしさを井戸端の噂に聞き、つてをたどって手に入れ、下屋敷は“味噌屋敷”と呼ばれました。二代忠宗公の世には、余分を払い下げるようになりました。(以上「貯蔵に耐える芳香の仙台味噌」)



味噌醤油仲間掟留帳慶長六(1601)年仙台城に移り住んだ政宗公は、城下の老舗商人(古人)19人のひとり真壁屋古木市兵衛に古人筆頭を命じ、「御用味噌」の看板を許可しました。商業の発展とともに独占は崩れ、城下の味噌屋たちは仲間(同業組合)を結成して藩の保護を求め、品質と価格の安定に努めました。天保の飢饉では、味噌の品質低下と価格混乱を、再三の藩との交渉により解決しました。今日まで300年間守り続けられた仲間の基本が、仙台味噌の声価を築き上げたのです。(「味噌沿革史」より抜粋・編集)



戦後の急激な食生活の変化・洋化は、ごはんと味噌汁のスタイルが失われるのではないかと思わせるほど進みましたが、再びその良さが見直されています。これは日本人にとっての味噌の大切さを物語るものでしょう。仙台味噌も、天然醸造がつくりだす独特の深い味わいが、調味料として、そのまま味わう食品として、常に新たな楽しみ方を提供し、その人気を保ち続けています。

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